牧師室から

神との合致    23-2-19

 人間の一生は、神さまへの復帰の道でしょう。人間が神さまに創られた者

ですから、その神さまの製作の意図に適って生きることが求められる。つまり、

神さまから来て、神さまに戻っていく。この復帰が、神さまとの親密な一致に

至るほど、完全であればあるほど、人間は当然自分の創られた目的に一層

そうことになります。★そこに人間の永遠の幸福があります。当然といえば当然

でしょう。車は人や物を運ぶためにありますから、輸送運搬のために用いられ

ることでその目的を果たしていることになります。コーヒーカップは、その中にコ

ーヒーが入れられ、飲まれ、人間を満足させてこそ、その本来の役割を果た

したことになります。ラジオやテレビは、音声や画像を通して、人々に情報や

娯楽を届けてこそ、その存在意義があります。★同様の事が人間にも考えら

れます。謙遜が求められます。創られた者が創った者の意志を推察する努

力は、どれだけしても時間の無駄ということはありません。逆に,創った者の計

画を無視して、自分の思いのままに生きていくこと、突っ走っていくことこそ時

間の無駄になるのではないでしょうか。じっくり<創った者>に聴く時間をもつこ

とは、決して無駄ではないでしょう。★あわただしい毎日の中で、バタバタと空

回りしている自分の気が付くことがあります。そういう時に限って、前の晩に遅く

まで仕事をしていて、朝寝坊をし、気が付いたら、朝のひととこを、ゆっくり<創

った者>への聴従を怠っているのです。そして、一日中、心にぽっかりと穴を

開けたまま、虚しく過ごしています。神さまをわたしに合致させるのではなく、わ

たしを神さまに一致させる努力は何よりも大切です。                                                                                                                                                                                                                                                                     

メメント・ドミニ    23-2-12

  「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。

ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽く

し、魂をつくしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと

掟を守って、あなたが幸いをえることではないか。」(申命記10:12f)

 

 わたしたち日本人は縁起をかつぐ。もちろん日本人だけではないが、

特にその傾向が強い。方向がいいとか悪いとか、運がいいとかわるい

とか、日がいいとか悪いとか。そしていい数字、悪い数字とかを、気

にする。たとえば4(シ=「死」を連想)とか42(シニ=死に)、49(シク=死・苦)

を忌み嫌うのである。ところが、中世の修道士たちがお互いに挨拶す

るときに用いたのが「メメント・モリ(死をおぼえよ、の意)」であっ

たと言われる。まったく逆のことを彼らはむしろ好んで行っている。

★…が、実はそれは挨拶の半分でしかなかった。あとの半分が「メメ

ント・ドミニ」であった。「主をおぼえよ」の意味。どういうことであ

ろう?死をおぼえる事は、人間の有限性を受け容れることである。様々

な意味あいがある。が、それで終わってしまうならばキリスト者とは

何とさびしい存在であろう。けれども、そこに「メメント・ドミニ」

が加えられる時、180度の逆転が起こる。死を乗り越え、突き抜けて

くださった復活の主の輝かしい希望へと導かれるのである。まさに、

「イエス・キリストの十字架と復活を信じる者にとって、死は最後で

はなく、死の彼方にある祝福と神の国を思うことができる」からであ

る。★悪霊に振り回されるような経験をすると、すべての霊的体験か

ら距離を置こうとする。正しい霊性もある筈なのだが、「あつものに懲

りて、なますを吹く」のたとえのごとくである。しかし、果たして「メ

メント・ドミニ」を経ずして、わたしたちに真の幸いがあるであろう

か?聖霊の満たしをいただいてこその、わたしたちの至福であるとお

もうが。                                                                                                                                                                                                                                                                               

イエスさまを愛しているなら   23-2-5

  「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、

生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者を愛します」(第

一ヨハネ5:1)

 イエスさまをメシアと信じて受け入れる者は、即キリスト者として

の資格が備わっているとわたしは信じています。ですから、その人は、

イエスさまを愛する他の多くの主にある友だちを受け容れるはずです。

しかるに現実はどうでしょう。日頃からイエスさまを愛していると告

白していながら、信友(信仰の友)を受け容れていない場に遭遇すること

があります。心の中で思います、この人たちにとって信仰はどのよう

に働いているのだろうか?生きて働く信仰はどこに?ただ、わがまま

なだけではないか、と。残念!!

 

 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義に

勝っていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」(マタ

イ5:20)

 以上は他人を非難するのではなく、自省の言葉として心に響きます。

キリスト者だからといってこの世の倫理や道徳に無頓着でいいと、主

はおっしゃいません。むしろ逆でしょう。世間が尊敬し、一目も二目

もおく、あの律法学者やファリサイ派の人々を超える義をわたしたち

は持っているはずだというのです。外面的な見せかけでなく、内面的

にも整った義に生きるのが、あるべきキリスト者の姿でしょう。あな

たもわたしも、あらためて日々のあり方を考えてみましょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                

官僚制度よ、さようなら   23-1-29

官僚制度について考える。日本の官僚は優秀だと言われる。果たし

て本当か?昔の中国の科挙制度から始まる。それが日本に輸入された。

機会は誰にでも平等にある。学問を積み、国家試験にパスすると官僚

になる道が開ける。家柄ではない。実力。★今日のそれ

は、江戸時代に遡る。徳川300年を良くも悪くも支えた制度だ。それ

でも何回か危機を経験する。明治維新の時、薩長は新政府をつくる。

が、それを実際に動かしたのは、旧幕臣の官僚たちであった。表面で

は服従を装い、陰では政治家たちをバカにしていたことも多々あった。自

分たちこそ政治の担い手であるという自負があった。その後、3つの

<閥>が成長発展していく。財閥、軍閥、そして官僚閥が1945年の

敗戦を迎える。前者二つは解体させられるが、官僚閥はそのまま生き

のびる。★戦後の高度成長を支えてきた誇りが官僚たちにはあった。

<日本株式会社>の事務方とまで揶揄された。けれど果たしてすべて

が彼らの尽力によるものだったか極めて怪しい。というのは第二大

戦後間もなく朝鮮戦争、ベトナム戦争と、特需が続いた。ひとさまの

不幸のお蔭て濡れ手に粟だった。また、戦後役所に手厚く保護さ

れた産業はことごとく左前になっている。生糸、鉄鋼、造船など。逆

に官僚に冷遇された産業は今日も元気だ。自動車産業、電機産業など。

★一方に官僚制度を評価する向きがあるが、実は彼らが自画自賛する

ほどのものではない。百害あって一利なし!そもそも一度国家試験に

合格したら一生保証されるような制度こそおかしい。一般の人が荒波

を受け戦っている時、役人だけが特権をむさぼる時代は早く終わらせ

なければならない。★コロナ禍がまだクリアしていないのに、庶民の

苦しみを知ってか知らずか、説明責任も十分に果たさないままに、国

民の生死にかかわる重要案件を通していく政府、それに対してたしな

めるどころか追従する官僚たちを見張っていかなければならない。

野心を持って     23-1-22

その昔、W.S.クラーク博士が札幌農学校(現北海道大学農学部)で教

鞭をとった。僅か8か月の滞在だった。その先生が札幌を去る時に言

った言葉が、有名な<少年よ、大志を抱けBoys, be ambitious>だっ

た。どのような意味あいで、この言葉が語られたのか?翻訳された日本

語の通りだったのか?★あるキリスト者は、その挨拶の言葉の後にin

Jesus Christと言ったのだと言う。確かにambitiousだけでは「大志」

などと言うきれいな翻訳にはならない。むしろ「野心」という訳がふ

さわしい。とすると、クラーク先生の日本の学生に対する励ましの言

葉は、とんでもないことになってしまう。それを浄化するのは、あく

までも「イエス・キリストにあって」とつづいてこそである。つづけ

ると<Boys, be ambitious in Jesus Christ>となり、はじめてクラー

ク先生の真意に近づく。★今日、若者だけではない、少々年を取った

者も共に、本当の大志、大望を持つことを求められている。あなたも

わたしも、主のために命がけになる生き方をしているだろうか?わた

しは改めて挑戦したいとおもう。「あなたはイエスさまのために野心を

抱くまでに志を熱く持っていますか?」イエスさまのために生き生き

と生きることが、実は自分のために生き生きと生きることになる。自

分の小さな幸せのためにのみ生きようとするとき、結果的には自分の

ためにも生きることにはならない。わたしたちは、この天王台教会を

まことキリストの教会とするために、ありとあらゆる努力をしたい。

この地にイエス・キリストの御旗を高く高く掲げようではないか! ★

ちなみに、クラーク先生が種を蒔いたところに、「札幌バンド」という

信仰者の群れが形成され、後に、日本社会に多大の影響を与えた新渡

戸稲造、内村鑑三、広井勇、宮部金吾、伊藤一隆が排出された。他に

日本プロテスタント3大発祥の地として、横浜バンド(バラ、ブラウ

ン、日本基督公会)と、熊本バンド(新島襄、同志社)が有名。                                                                                                                                                                                                                                                                                

                     

違いは豊かさ     23-1-15

「日本の音楽学生と話していても、音楽の向こうに何があるか知

ろうとしない。関心があるのは自分の興味の範囲だけ。そしてそれは日

本人全体にもあてはまるのではないでしょうか。知らないかたほうが

幸せですか?今日に至る世界の歩みやその根っこにあるものに目を向

けようとしない日本人には、出口も未来もないと思うのですが…」メ

キシコに住み国際的に活躍していたバイオリニストの黒沼ユリ子さん

の嘆き節です。異文化を知ることで自分の立ち位置も分かり、またど

う生きていくべきかが分かるのでは?

★ラジオである人が言っていた。「日本も経済的に大変な時、どうし

て遠いアフガニスタンなどに多額の援助をするのか?」素朴に考え、

正直に質問したのでしょう。それに対するコメントは「今この一分一

秒に飢えや寒さのためにバタバタ人が死んでいっている現状に、日本

に生きているわたしたちは目を閉じることは道義的にもゆるされない

ことなのです」と。異質なもの、自分と違うものに対して心を閉じる

事で、実は何も変わらないのです。

★今月は、支区祈りのカレンダーで、わが天王台教会のために祈っ

てくださった教会がたくさんありました。そして、お便りが届きまし

た。礼拝堂うしろの掲示板をご覧ください。 松戸、西千葉、千葉、

北柏めぐみ、長生、長浦、我孫子の諸教会からカード、手紙が届いて

います。感謝です。祈られているのです。わたしたちの教会の礼拝が、

祈祷会が、諸集会が孤立しているのではありません。むしろ逆でしょ

う。不完全で、不十分ながら遅々たる歩みをしていますが、周囲の多

くの方々に祈られて<今>があるのでしょう。ということは、わたし

たちもまた自分自身を見つめるだけでなく、外の、多くの人たちへ目

を向け、祈りに覚えるべきでしょう。

 

祈り求めよ!    23-1-8

「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山にむかって、『ここから、

あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何

もない。」(マタイ17:20)

 わたしたちは祈り求めるならば、何でもできる。しかし、もし願い

求めているものがいただけないとしたら、それには必ず理由がある。

わたしたちの信仰が足りなかったか、祈ることがあまりにも少なかっ

たか、それとも聞き入れていただくことが御心ではなかったか、また

は、わたしたちがお願いしているものよりも、もっとよいものを神さ

まがくださるおつもりであるか。

聞き入れるには、あまりにも難しいことだから、お願いしているも

のがいただけないということは絶対にない。聞き入れていただけない

というものは何一つない。だから、何でもお願いしよう。真剣にお願

いしよう。御心ならばかなえていただけるのだから。罪人の回心とか

民族の回心を、世界の平和を、国の経済的安定を・・・そして神さまから

愛されている天王台教会を祈り求めようではないか。そして御心がわ

たしたちの上になることを祈ろうではないか。必ず聞き入れていただ

けるのだから、心から信じておねがいしようではないか。わたしたち

の真心は神さまに通じている。

あと実現するかどうかは、神さまがその<時>を備えていてくださ

る。わたしたちにとって一番素晴らしい形で神さまは実現してくださ

る。

聞き上手、聞き流し上手   22-12-25

祈りは神に聞くことなのだが、その聞き方、または聞く術となると、

なかなか難しい。しかし、むずかしいというのは、むずかしくしてい

る原因は神のほうにはなく、わたしたちの方にある。つまり、謙虚と

単純さがないと神の声は聞こえなくなり、かえって雑音ばかりはいっ

てきて頭がおかしくなる。

「切に勧めますが、本を読んだり、お説教を聞くとき、また信仰上

の秘儀について黙想する時、よく分からないことがでてきても、それ

を細かく詮索して頭を疲れさせたり、心を涸らしてはなりません。女

性のためでないことはたくさんありますし、男性の方も分からないこ

とがあるのですから。」(聖テレジアより)

「聞き上手は、聞き流し上手」か?ユーモラスな、しかも肝心な事

はしっかり聞き取る、聞く術をテレジアは教える。このことは、普段

の生活にも当てはまる。批判や非難、不愉快な態度など、思い出して

も聞き流すこと、お世辞や他人からの称賛にも、それにひっかかって

いい気になったりしないで、それを流すこと、こうした聞き流し上手

になれば、心は平和でいられる。結構むずかしいことだが、こうした

ことは祈りの中の(雑念馴れ)にも似た、日ごろの訓練である。

 

源左という無学なおじいさんは、お寺のお説教が好きで、あちこち

聞いてまわった。その内容はなんにも記憶にないようだが、そのたび

に「世界中のことが皆本当になった」と言って喜ぶ。聞き流すのでは

なく、言葉も声も全部ひっくるめてその場での話の底に流れている信

仰の響きを聞き取る。聞き上手なのだ。これも日々の出来事のすべて

に底深く響く、仏の声を聞き取る耳がある。キリスト教なら聖霊の声

とか働きとも言われる。

使徒パウロは言う。「外なる人は衰えゆくけれども、内なる人は日々、

新たになる」(第二コリント4:16)

                                                                                                                                                                                                                                                                                   

                                                                                                                                                                                                                                                                                 

                                                                                                                                                                                                                                                                                   

                                                                                                                                                                                                                               

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